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■こんばんは、編集長のあきばっくすです。
今年は4年に一度の「パリ~ブレスト~パリ」の年です。
それを記念してロングライダースで海外ブルベの原稿を寄稿してくれている
Abさんが2007年に初めてパリ~ブレスト~パリの1200kmブルベに
挑戦した時のレポートを2回にわたって再録します。
なお、初出は2013年10月に頒布された「ロングライダース3.75」のために
書き下ろされたものです。
(イラスト/イセダイチケン)

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■プロローグ 
 
Allez! Allez! Paris-Brest-Paris!
 
上空から小さい女の子の声が聞こえた。ルートの途中にある民家の二階から子供が応援してくれたのだろう。Merci! Merci! 慣れないフランス語で返事をする。
 
パリブレストパリ。四年に一度、アマチュア・ロングライダースが参加する伝統ある祭典だ。文字通りのお祭り騒ぎで、沿道の人たちは諸手を挙げて歓迎してくれる。
 
市街地を抜ければあとは真っ暗な地平線まではるかに続く、何千台もの自転車の赤いテールライト。この集団の中に自分は居る。競争ではなく、ただひたすらに距離を走るロングライド。それがこんなにも受け入れられていることにただ感動を覚え、僕は必死に前走者にくらいついていった。
 
パリブレスト 扉


 
■背景
 
僕はもともと自転車で遠くまでただ走ることがとても好きだった。しかしながら、日本でそれを口にするのはかなり勇気のいることだった。
たとえば公道でジャージを着てヘルメットを着用する。それだけで「うわあ・・・あれカッコいいとか思っちゃってるのかね? キモーイ」、トラックからは「遊びで走るやつが仕事の邪魔をするんじゃねえよ公道に出てくんな!」と灰皿の中身を頭からかけられたり。スポーツとして自転車をやってる人からは「そんな誰でもできることをなぜやるのか意味がわからない。勝たなきゃ意味ねーじゃん?」そして同じロングライドをする仲間と思しき自転車キャンピングの人からも、「ただ距離を走るなんて馬鹿でもできる。地元の人と触れ合って家に泊めてもらったりして『交流』することに意味がある。それができないのは人として終わっている」(*1 実際言われたし、サイクル野郎というマンガにもこの表現が出てくる)などなど・・・どれもそれが世界共通認識であるかのように言われてきた。

でもロングライドは間違いなく面白い!

僕は誰かに迷惑をかけてロングライドが叩かれることをかなり恐れながら、中距離のサイクリングをひたすらに続けていた。(*2 たとえ途中高熱が出てそれが山の中であってもレスキューを呼ばず、近くの駅までたどり着けるようにギア比を0.8まで下げたり、輪行袋と着替えは絶対に保持する、などに気を付けた)


■ブルベ
 
ブルベは自転車による長距離走行を認定する遊びである。
2003年にPBPに参加した日本人が日本にも支部を設立したか、または2003年にPBP参加するため支部を設立したか。そのあたりの記憶があいまいなのだが、ともかくこのころ日本にもブルベが登場した。概要を読んだ僕は歓喜した。これこそまさに僕が望んでいるサイクリングそのものと思えたからだ。すべての自己責任、サポートの禁止、クローズ時間だけでなくオープン時間の設定があり競争とスポンサーを排除する姿勢などなどだ。唯一、夜間にも走らねばならないところは納得がいかなかったが、ロングライドがフランスで文化として認められていることに感動した。

2005年、僕は「ハチミツとクローバー」というマンガの竹本君の自転車旅行をトレースして、東京から太平洋側の都市を巡ってずっと自走して稚内まで走った。そこから少しだけ電車で引き返して、続けてブルベに参加した。初ブルベは北海道200km。8時間以内に完走するつもりで走っていたのだが、半分ほど走ったところで「雪のため中止」が宣言された。こうなるともう、この年は終了だった。認定距離には200,300,400,600kmがあるのだが、より長距離を走るためには、ひとつ前の距離を認定されている必要があったのだ。そしてこの5月の200kmを逃すと、その開催時期から、もう2005年中に600km認定を受けることは不可能となった。

リベンジを果たすべく2006年はたくさんブルベを走り、いくつもの認定をもらった。そして翌2007年、僕を含む大量の日本人がパリブレストパリに参加することになった。 

パリブレスト カット1

 ■パリブレストパリ
 
ブルベの総本山はフランスのパリにあるACPという団体である。パリからブレストという都市まで往復する1200kmのブルベは4年に一度、もう100年以上もACPによって続けられているというのである。どこかで聞いたお菓子の名前に思えたのだが、それは偶然ではなくて、この大会第一回にむけて作られたものだった。シュークリームは自転車のタイヤを模していて、チューブに見立てたパイ生地が中に入っているというのである。甘い物好きとしては見逃せない。
 
そしてその参加条件は一年に200,300,400,600kmの認定を受けること。それ自体はたやすい。しかし年々狭くなる参加枠の中、いきなり日本人が100名近く増えるというのだ。はたして本当に参加を受け付けてくれるのか? なにか不備を示されて出走を拒否されたりしないのか。国内ブルベ関係者の中にも妙な緊張感が生まれていた。
 
たとえば夜間の反射たすき。これは本当にたすき形状のものでなくてはならないのか。ベスト型やプリントされた反射材はどうなるのか。あるいはライト。すでにかなり明るくなっていた白色LEDは本当に認定基準に達していないのか。あるいは食料の補給は自在なのか。治安は、路面は・・・
 
そして僕にとってもっとも重要なのは、これがフランスで行われるということだった。ブルベは自己責任なので、リタイアしたらそこから自力でスタート地点まで戻る必要がある。しかしフランスでは英語が通じない。そんな中に放り出されて、果たして一人で戻ってこられるのか。日本ですらレーパンジャージで汗くさい中、名古屋あたりで熱中症になったときは最悪だったことを思い出し、それは恐ろしい気持ちになった。(*3 今ならともかく、ジャージ姿で外に居るだけで不審者扱いだった)
 
しかし大きな助け舟が出た。「PBPサポートパック」というのが有志で実現されたのだ。つまり航空券以外の、空港からホテルまでの送迎、ホテルの予約、440km地点でのバスチャーター(往復コースであるため、行きと帰りの2回、チャーターしたバスの中で眠れるし、リタイヤするときはこのバスで運んでもらえる) それにドロップバッグはサービスがあるものの、参加者が多すぎて自分の荷物を発見するのに何十分かかるかわからない。このパックに参加すれば、バスの中で簡単に発見できるというわけだ。
 
これが12万円。さんざん迷っていた僕もこれなら安心だろうと、参加を決意した。なお航空券はまた別に取る必要があって、こちらにも20万円以上かかったはずである。(*4 航空券と空港使用料と自転車輸送費が別料金で、しめて257,130円でした。AirFrance恐るべし) 何しろ初めてのことだらけで、とにかく生きて帰れるなら多少の出費は安心料と考えていた。



■身体測定
 
気になる必要書類のひとつに「医師による健康診断書」があった。フランス語または英語で書かれていて、参加に問題ないことを示すもの。MD(メディカルドクター)によるものが望ましい。とある。今でこそかかりつけ医に500円くらいで診断書を書いてもらっているが、当時はここをケチったがために出走できないということが恐怖だった。そこで当時AJ会長のK氏が2003PBPで利用実績があるという、神奈川のとある施設でMDの診断書をもらうことにした。25000円である。
 
申し込みの締め切りの関係もあって、結構多くのPBP参加者がこの施設に来ていたみたいだった。入口で受付しているとき、隣で別の人も受付をしていた。神奈川県民は半額で、さらに60才以上は大幅に値引きになるのだったかな? その対象である人らしい。僕の受付時の値段を聞いていたらしく。「うわあこんなにお金払ってご苦労様www」と言ってきた。仕方ないじゃないか、万一ここをケチって書類に不備があると言われたらどれだけ悔しいか。実績を求めると選択肢はここしかなかったのだ。
 
それだけならまだいいが、施設の職員の態度自体がなんというか、失笑を必死に堪えている感じなのがまるわかりなのである。
「なんか今日は妙に必死な奴が多いなぁ。何なの? 1200km走るって? ぷっ、くだらねえ。おっとお客様だからそんなこと言えないよ。でもさ、そんな誰でもできることに、なんでそんなに心血を注いでるの? ここは一流のアスリートのための施設であってだね・・・ま、金をもらえばやりますけどね。」『はいお見事!お疲れさま!』「って口では言わなくてはならないんだよな、こんなパンピーのために。ああ口が曲がるよ、俺なんでこんな仕事してんだろ・・・」という態度がダダ漏れといったところだ。
 
そしてその気持ちは痛いほどよくわかる。金のためにプライドを売れるかという感じだろうか? だが、我々は別に自慢したり競争したり誇りたくてやってるわけではないのだよ。「ここの診断書」が必要だから来ているのだ。それがもらえればそれでいいから!
 
その日はむしろ精神的に疲弊し、結果として英文が数行入った小さな書類が届いた。えっ、こんなものなの? 僕は一層この書類で問題ないのか不安になった。まあ、日本人参加者のほとんどが同じ書類だから、一蓮托生ではあるけどね。


■フランスへ
 
そんなこんなでしかし僕はいつの間にかフランスに降り立っていた。
最初の感想は、寒いなということだった。平均気温は調べていたものの、日本で滝のように汗を流していた身から想像できないほどで、長袖でも肌寒かった。
 
幸い自転車の破損などはなかったため、あとの心配は無事に完走できるかどうかということに収まった。
仲間と一緒にエッフェル塔や凱旋門、ルーブル・オルセー美術館などを見て回ったり、カフェで優雅にランチをしたりしてスタートまでの時間をすごした。これはホテルのメシがあまりに貧弱だったのと、マクドナルドですら英語は無視されたためだ。観光地なら値段は張るものの、日本語メニューすらあった。
そんなわけであっという間にスタート当日となった。

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 ▲スタート/ゴールは人権体育館。装備を見ると寒そうなことがわかる。


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 ▲受付会場。ものすごい人出である。受付後、パーツやウェアの販売も行われていた。



 ■雨の夜スタート
 
サンカンタン・アン・イブリーヌ。地名までもが美しいこの国で僕たち参加者は人権体育館に集合した。
この年の参加者は全部で5300名ほどであった。制限時間がもっともゆるい90時間の部にエントリしたが、20分おきに集団を区切ってスタートするのだ。時刻は22時だったか。バケツをひっくり返したような雨が降り出す。日本人なら雨には慣れっこだ。そう思ってあまり気にはならなかったが、やはり晴れていた方がうれしい。そんな中花火が上がり、集団は団子状態でスタートするのだった。
 
最初は高速道路のような高架を一斉に走り出す。みなテンションが高くスピードも速い。まだまだ先は長いのに。でもつられて一緒に走ってしまう。どこまでも続く赤い尾灯。市街地を抜けると何もない空間がひたすら闇の中へ続いているのだが、そこにびっしりとテールライトがつながっているのだ。最後までGPSデータのまともなものが得られなかったのだけれど、これなら心配不要かもしれない。(*5 実際他の参加者が視界から消えた時間は、1200kmを通しても数分といったところだ)

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 ▲ スタート直後は閉鎖された高速道路のような状態で、集団で走行していた。


 
■最初の夜
 
僕は何よりも眠いのに弱い。だから夜スタートはできれば避けたかったのだが、制限時間90時間の部はこの時間スタートしかないのである。
 
初のヨーロッパがブルベとなる僕にとって、町と町のあいだがどうなっているのかは見当もつかなかった。実際走ってみると舗装路で結ばれているが、民家や店は当然無い。広大なトウモロコシ畑やヒマワリ畑がただひたすら広がっているのだ。
 
走り始めてしばらくは市街地で、曲がり角があり、フランス語や英語、日本語で「右!」などの声がかかっていたのだが、しばらくすると直線となり無言となる。最初に通過した町でプロローグに書いたような声援を受け、またひたすらに進むうちに、徐々に眠くなってきた。これは危険だ。だがこの集団から離れて一人野宿というのも、勇気がいる。ふらふらと走っていたら、後ろから「あぶねえぞ!」と怒鳴られる。えっとこれは英語じゃないからフランス語もしくはスペイン語か? この場合すみませんはえっとえっと・・・「パルドン?」こんな感じで、あまり生きた心地がしない。眠くて走り続けるのは道交法違反である。僕は路肩に自転車を寄せ、そのまま畑に突っ伏した。一瞬寝たらまた走り続けよう。
 
そう思った瞬間、さーーーー と雨が降ってきた。さっきまで忘れていたように止んでいたのに。くそっ。これは寝られない。仕方なく次のPCまで走ることにした。 


■最初の補給
 
最初のPCは食料補給があるがブルベカードのチェックはしない。だから寄る必要はなかったのだが、眠くて休憩に寄るしかなかった。たまたま通りかかった日本人と二人で店に入る。こんばんはー。返事はない。
 
日本語で二人で話しつつ、チョコレートなどを棚から取ってレジに出す。「すいません、これとカフェオレをください。おいくらですか?」一夜漬けのフランス語。しかし連れは「ああ、それだけ話せるなら問題ないですよねえ、うらやましい」って、いやそんなことはないんですよ! しかしチェックポイントが全部フランス語とはハードルが高い大会だな。いや何か変じゃないか?
 
その通りで、ここは単なる地元のカフェで、コントロールはそのすぐ数百メートル先にあるのだった。 


 ■モルターニュ・オ・ペルシェ 144km
 
食堂でテーブルにつっぷしていると、Abさんじゃないですか! と何人かが声をかけてくる。どうしたんですかー日本じゃガンガン走ってるのにー いや、そういう問題じゃないですから。悪いけど寝かせてください・・・。
しかしPCの中は騒がしく、やはり一瞬でも落ちることはできなかった。あきらめて先に進むことにした。
 
日が昇ってくると比較的目が覚めてくるものだ。僕は道を這っていた巨大ななめくじを接写したり、走ってくる日本人を撮影したりしながら走って行った。
 
次に問題となるのはトイレである。PC間は80kmあり、また各PCは非常に混雑している。その他となると教会もしくは公衆トイレになる。かなりの場所にはスタッフの手書きで"WC"などのメモが書かれているのだが、ないところもある。地元の人になんとかジェスチャーで聞いてみて、教えていただけると大助かりだ。そして「大」ができると、一安心である。天候も徐々に回復しつつあり、これでもう安心だなと勝手に思っていた。
 
パリブレスト カット2
 
■事故の連絡
 
詳しいタイミングを忘れてしまったが、このあたりで日本人参加者が交通事故にあったという話を聞く。大丈夫なのだろうか? 心配になった人が次々と止まる。しかし何ができるというわけでもない。
 
誰かが叫んだ。「はい、別にあなたたちが止まっても何もできないよ! 早く先に行った行った!」なるほどたしかに。それでも真っ先にそこから立ち去るのは何となく心理的抵抗があったが、先を急ぐことにした。
 
後から聞いた話によると、AJ会長が完走を断念して病院に付き添ったらしい。また事故ったのはツールドおきなわ200kmを余裕で完走できる、かなりの剛脚であるZ氏だった。そう、ブルベは運の要素が大きいのだ。 

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 ▲市街地を抜ける。雨はずっと降っていたように思えるが、確かに曇り空もあった。

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 ▲コントロールも大混雑であることがわかるだろう。これは入口の様子だ。


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 ▲コントロールのための駐輪スペース。遥か遠くまで並んでおり、探すだけで一苦労だ。

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(後編に続く)