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  Photo by Ayane

こんにちは、編集長あきばっくすです。

12月に入ってからというもの、ロングライダース5.0の編集作業で
平均睡眠時間3時間の日々をすごしていましたが、
12月22日に印刷会社によるデータチェックも終了し、
無事に12月28日のコミックマーケットC87(スペース:西こ-24a)を皮切りに
頒布開始できることが決定いたしました。

頒布開始に先駆けて、記事の一部を公開することにしました。
本日はあきばっくすが記事を担当した「遥かなるパリ~ブレスト~パリ」 の第5回をサンプルとしてフルにお届けします。

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【第1章】 2014年夏。週に4日自転車に乗り、万全の体調を作り上げる

 1月に逗子から伊豆高原まで走って往復する200kmブルベを、タイヤトラブルでリタイヤした私は、出鼻をくじかれた格好になって、そのあとのブルベでも思うように走ることができなかった。
 まず地元・鎌倉で開催される鎌倉300kmはエントリーに失敗。2月の3月中旬の聖地・大洗を発着する200kmブルベこそは完走したものの、そのあとのブルベはこんな感じだった。

■BRM405千葉400km・・・予想外の雨に雨具が対応できず、凍えてリタイヤ。
■BRM510興津400km・・・昨年と同じコースでまたも向かい風の洗礼を受け、異常な渇きでリタイヤ。
■BRM614千葉600km・茂木クラシック・・・袖ヶ浦から北上して牛久、不動峠、道祖神峠を越え茂木で外房方面に折り返して外房に抜け、房総半島を時計回りに回って袖ヶ浦に帰るコース。
 
 この3つめの茂木クラシックでは前半2回のパンクに見舞われ、不動峠を登る前に早くも一人になってしまった。その後の道祖神峠で体力を使い果たし、下る途中で雨に降られ、笠間の駅に着いた頃には大豪雨になってしまっい、気力が尽きてリタイヤ。実に1勝4敗だ。
 
 茂木から帰った私は仕事を絞り、梅雨時のわずかの晴れ間でも乗るような生活を始めた。自宅仕事の強みをいかし、空模様を眺めながら間隔を空けないように約40kmのコースでトレーニングしたのだ。その頻度、およそ週4日。体重は見る見るはじめ、湘南国際村のコースでもコンスタントなタイムが出るようになった。(と言っても12分とかその辺のタイムなのだが)

 
今回の装備はかなり手厚い。サドルバッグが大きすぎである。
 ■今回の装備はかなり手厚い。サドルバッグが大きすぎである。


【第2章】 残されたSR取得のラストチャンス・下関400

 400km以上のブルベばかりを選んで出走しているようだが、実は私は3年前に沼津400kmを完走した事が1回あるだけで、昨年まで600kmブルベの完走はおろか、出走すらしていない状況だった。
 
 ブルベのシーズンが始まるのは多くの地方で1月の真冬の時期だが、この決して自転車向きではないこの時期でも、まず200kmを走った後に300km、400km、そして600kmと距離を伸ばしていくと、だんだんと体が長距離に馴染んでいく。それなのに短距離ブルベを捨て、400km以上ばかりに参加申し込みをする理由は何なのか。

 梅雨を過ぎるとだんだんと開催されるブルベの数がまばらになってしまい、地元近くでは300kmや400kmの中距離が枯渇する。まだ2014年は200km1本の認定しか受けていない私は、秋以降少し遠征してでも中距離を走らないと、ブルベシーズン終わりまでに200km、300km、400km、600kmをすべて走破して、2015年に迫ったパリ~ブレスト~パリの出走資格を得ることができない。
 
 はたして私は本当にパリ~ブレスト~パリ1200kmに出たいと思っているのだろうか。それにしては計画性がない。どうせ早くは走れないのだから、いろいろな工夫をして、体力で劣る部分を頭脳でカバーしなくてはならないはずなのに。
 
 400kmは今年2回失敗している。300kmブルベは秋に千葉で開催されるが、他はいよいよエントリーできる中距離が減ってきた。そんな折に見つけたのが、9月に本州の西端、山口県・下関で開催されるブルベだった。これに出て完走しておけば、次の月に残る300kmと600kmを完走できるかもしれない。そんな思惑があって、久しぶりに飛行機に自転車を積み、北九州空港経由で下関の地を踏んだのだった。
 
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 ■スタート・ゴールは下関の海峡ゆめ広場。      ■謎の応援団が恥ずかしいポスターを持って。


【第3章】 角島を越え、日本海の北東風に苦しむ
 
 9月13日。スタートは午前11時とゆっくりした時間だった。
 400kmブルベの制限時間は27時間である。速い人は17時間台で完走してしまう。あまり朝早い時刻にスタートするとゴールの出迎えが早い時間になってしまう。多くの参加者が明るい日中のうちにゴールできるように設定したスタート時間なのだろう。午前11時にスタートすると、タイムリミットの27時間後は午後2時になる。何とも微妙な時間設定ではある。
 
 天候は悪くない。実はこの夏にコンスタントに乗ってはいたが、50km以上の距離はほとんど走っていない。そういう意味ではかなり不安がある。風がやや吹いている。今朝の天気予報だと、北東の風になるらしい。下関をスタートして北上し、日本海側に回り込むともろに向かい風になる風向だ。
 
 このブルベは海峡を越えた九州のAJ福岡が主催だった。コースは下関を起点に時計回りで本州の西端を回り込み、日本海側を北東に進み、旧城下の萩から内陸に南下して山地を横切り、瀬戸内海側に出てすぐに再び北上して山地に入り、カルスト地形で有名な秋吉台を経て下関へ戻ってくる、山口県を周遊するコースだ。
 
 定刻通り午前11時にスタート。AJ福岡のルールで日中は反射ベストや反射タスキを装着しなくても走行できるので、中には一目でランドヌールとはわからない参加者もいる。
 
 比較的ゆったりした集団に紛れて序盤の平坦な行程を走る。最初のPCまでは65kmの距離がある。そのPC1は有人のチェックポイントなので、補給は期待できない。途中のどこかで休憩しよう、とそれだけは決めていた。
 コースはアップダウンが混じるようになり、順調に私は遅れていく。
 
 私の上り坂での遅さはお話にならない。もともと鎌倉から茅ヶ崎のサザンビーチまでを往復するフラットな38kmのコースがホームである。最近では無理して湘南国際村へも登るようになったが、普段は1度程度のわずかな斜度にも反応してスピードが落ちる。フラットな湘南の海岸沿いのコースを気持ちよく走っている時に使う筋肉と、湘南国際村の9%の坂を登るときに使う筋肉は違う。後者が得意な自転車乗りはフラットでも早いが、フラットなコースばかりを追い込まずに楽に走っているサイクリストは上りが速くならない。
 富士ヒルクライムの28kmコースで2時間20分、それが私の実力である。(ちなみにAbさんは富士ヒルクライムで1時間15分を切るシルバーを何度も取っている)
 
 40kmあたりのコンビニで自主ストップし、再スタートすると早くもひとりぼっちだった。その状態にはもう慣れている。というよりその状態が好きだ。
 
 自転車というスポーツは実はインドアの遊びに近い。サドルの上は究極の個室だ。それはシミュレーター的なゲームをしている時に、流れる風景を眺める感覚に近い。なのでサドルの上にいると、物をを考える。自宅に帰ってこの情景をどういう文章にするか、そんなとりとめのないことを一人で延々と考える。さらには人生について深く考える。
 
  日本海側の景勝地・PC1がある角島(つのしま)に近づくと、北東の向かい風が強くなってきた。角島への高架橋はクルマであふれ、吹き付ける強風が欄干に巻いて不気味な唸り声をあげていた。そういえば角島の存在を知らなかった私はスタート前、見送りに来ていた綾祢さんに角島の大きさを聞くと、綾祢さんは小首をかしげてこう言った。
「うーん、江の島ぐらい?」
 実は彼女は江の島に行ったことはない。

 PC1は観光名所でもある角島。高架橋に吹き付ける北東風が強すぎる。
 ■PC1は観光名所でもある角島。高架橋に吹き付ける北東風が強すぎる。

長門である。艦これは「長門」画でないので最近やっていない。
 ■長門である。艦これは「長門」画が出ないので最近やっていない。 


【第4章】 山地を北から南に横断し、瀬戸内海へたどり着く

 角島は江の島の10倍くらい大きかった。後で調べると面積は江の島の0.38㎢に対し、角島は4.1㎢もある。当然島内も広く、誤ってバージョンの古いキューシートを装備していた私はPC1にたどり着くのに相当に迷った。やっとのことでPCに着くとクルマで先回りした綾祢さんがいた。彼女は有名な神奈川県の江の島なら、この角島くらい壮大な物であるべきだと思っているようだった。
 
 角島を離れ、さらに東へ進む。山陰本線と思しき線路が道路より海側を走っている。順光のひかりを受けた日本海は美しく、途中にある磯料理屋の「活きイカ」の看板が猛烈な食欲をそそり、改めて「なんでこんなにあわてて走らないといけないんだろうなあ……」とわが身にかかった呪いの業の深さを嘆く。
 
 8月の終わりの急に冷え込んだ時期に風邪をひき、体調は決してよくないはずだったが、脚は回る。でも萩は遠い。昔の長州人はよくも萩から下関まで、徒歩で行ったり来たりできたものだと思う。結局萩に着いたのは日がとっぷり暮れた後で、維新の道も松陰神社も萩城も闇の中だ。前に九州のフレッシュを走った時に、夜の熊本城がまったく見えなかったので、チームメンバー一同、がっかりしたことを思い出す。あれは・・・・・・確か2011年の9月。もう3年も経っている。
 
 改めて中年に差し掛かってからの時の流れの無慈悲さ思う。3年前の無邪気な私は、「3年後にはもちろん600kmのブルベも楽々クリア!」と信じていたのだ。
 
 PC3を21時43分に通過し、山間部へ分け入っていく。実はこのあたりのことがあまり記憶がない。距離にしてスタートから170km走っていないのに、昼間な鮮やかな日本海の風景に比べてまったく印象がない。強いて言えば、路面の状態がよかったということ。与党の領袖のおひざ元であるせいなのかは不明だが、山道でもほとんど危険は感じない。
 
 闇を走るのは「楽しい」とか「怖い」というような大脳新皮質的な感情とは違って、もっとこう、脳内のケモノの脳、小脳などを使って走っている気がする。目はライトに照らされるかすかな路面の起伏を鷹の目で検出し、脚はわずかなトルクの変化も読み取って、最適な回転数を維持している。なんというか人間的な大脳パートは排除され、あれこれ考えている私の自我は、自転車を走らせている神経系からは仲間外れにされている。勢い私はサドルの上でさらにひきこもりになるしかない。
 
 そうこうするうちに夜の闇の中に潮の匂いがした。日本海の清冽な海とは違う、都会的なキツイ奴だ。自転車と私はいつの間に瀬戸内海沿岸部に到達していたのだった。

ライトは十分だが、胃は固形物を受けつけなくなってきた。
 ■ライトは十分だが、胃は固形物を受けつけなくなってきた。 


【第5章】 そして再び山間部へ。秋吉台は「山」だった

 午前4時。道路標識には「下関まで60km」と表示されている。防府(ほうふ)市に入っていた。このまま瀬戸内海沿いに西に走れば、下関まですぐのはずだ。ところがそれでは走行距離が400kmに達しない。ルートは無情に北へ折れ、再び山へと分け入っていく。
 
 それにしても昔の農民の農業土木技術には脱帽するしかない。どこから水を引けるのか見当もつかない斜面の上に、不定形のいくつもの棚田を築いている。そしてそれらの棚田は現在でも現役で、こうべを垂れた稲が明け方の光の中でそよいでいた。
 
 カルスト地形で有名な秋吉台に向かっていた。うかつなことに私は高度の変化グラフを印刷したものを、キューシートに貼りつけるつもりでいて、出発前の忙しさにかまけてすっかり忘れていた。どこにどれだけの斜面があったかは、ルートラボで見たおぼろげな記憶しかない。秋吉台への道はこの先どこまで上るのか、想像がつかない。
 
 危惧は当たった。秋吉「台」と呼ばれるくらいだから、うっすら想像はしていたが、台地というより山頂だった。両脇に樹木が茂るうっそうと暗い斜面の上の方に、自転車を押して登る先行者が見える。自分も黙って降りて押し始める。乗っている時は重さを感じない自転車も、こうなってしまえば荷物だ。坂道を押し上げるスピード、時速約3km。気がつくと斜面は緩くなり、自転車と私は陽の当たる台地の上に出ていた。
 
夜明けから朝にかけて秋吉台を延々上った。
 ■夜明けから朝にかけて秋吉台を延々上った。


【第6章】 首が上がらない! 信号が見えない!

 秋吉台を境に道は下り基調になった。だからと言って上りがないわけではない。途中のコンビニで出会った地元の参加者の方が、「あと二つ、あと二つ!」としきりに繰り返している。経験による記憶も、高度変化グラフも持たない私は、登り道に遭遇しても「その二つ」がどれなのか判別ができない。ひたすら恐れ、無理に安心しようとする自分の浅ましさ。まさに情弱!
 
 かすかな体の変調を感じたのは、そんな「偽のラスボス」を下っている時だった。なぜかブラケットが遠く感じる。ブラケットを握ると腰が浮いて前に出てしまう。なんだろう。今までにない変調だ。不安を打ち消すようにとりとめのないことを考え続ける。例えば、千葉ブルベで見たキューシートのわきに張り付けられた女の子のイラスト。
「これだけでも心が折れないんですよ」
 そう言っていたのは誰だったのか、思い出せない。ああ、こんな時のために自分もハンドル周りに「ニャル子」のミニフィギュアを取り付けておけばよかったのだ。溺れる者が藁をつかむ姿にも似ている。ハンドル周りのマスコットはこういう時に偶像となり、果ては敬虔な祈りの対象にもなりうる。「我に勇気と祝福を」まさに、女神の誕生だ。
 
 いつしか「ラスボス」は越えていたらしい。稲刈りが行われている農村を下り、気がつくと見晴らしの良い平野を走っていた。喉がやたら渇く。渇くというより喉が乾燥している。ボトルの水を頻繁に口に運び、すぐ空になるボトルに自販機で水分を補給してばかりいる。乾燥しているのは喉だけで、胃は水分を求めていないから、水分の過剰摂取でひどいことになっている。
 
 気がつくと信号がよく見えない。
 
 目は何ともないが、首の痛みで顔を上げられず、下ばかり見て走るかハンドルの手前を握って上体を起こすしかない。変調の正体はこれだったのか。手前を握って走るとブレーキが遅れる。無理してブラケットに手を伸ばして走ろうとすると視線が下がる。速度は巡航でも時速15kmを下回っている。時刻は午前10時、残り距離は20km。
 自転車通行可の歩道をよろよろと走ってすぐに止まる。自転車を降りて首のマッサージをすると少しマシになって上を向ける。しかししばらくするとまた信号が見えにくくなって停まる。その間にも喉は乾燥し、胃の具合まで悪くなってくる。
 
 結局、私はその20kmを3時間半かけて走った。いや、自転車で「歩いた」。
 
 ゴールしたのはタイムリミット44分前の13時16分。走行タイムは26時間16分。宿がゴール地点のすぐ横の温泉付きホテルで、この日の14時からチェックインできるプランで助かった。スタッフへのあいさつもそこそこに汚れたなりでホテルに倒れこみ、無理やり体を洗って泥のように眠った。
 
最後の20キkmをほぼ4時間かけて走った、いや歩いた。
 ■最後の20kmをほぼ4時間かけて走った、いや歩いた。


【第7章】 そして希望をつなぐ 
 
 翌日は下関の街を自転車で巡った。
 
 幸いなことに昨日あれだけ私を苦しめた首の痛みはほとんどなくなっていた。朝は空腹で目が覚めた。ホテルの朝食では足りず、外へ出かけてカフェでモーニングを食べたのにも関わらず、空腹感はまだあった。それはもう、飢餓感と言ってもいいレベルだった。頭脳が考えるより先に、体が求めている。休日にはうまい海産物が食べられる唐戸市場まで自転車で走り、自分で握りずしをチョイスできる寿司バイキングを食べる。1500円分食べてもまだ足りない。

 ボロボロになりながらも、3年ぶりに400kmのブルベを時間内で完走できた。「目先のことだけを考えて走るんですよ」そうアドバイスをしてくれた友人の言葉に従い、残り距離は本当の終盤になるまで計算せず、ひたすら次のストップ、次の補給のことだけを楽しみにして走っていたのが良かったのだろう。
 
 PBP、パリ~ブレスト~パリに出場するのなら、今年中にあと300kmと600kmの認定を今年中に受けることが必要だ。600kmは鎌倉の自宅からほど近い湘南台スタートするブルベが1本、300kmは通い慣れた袖ヶ浦スタートの1本がある。そういう計画をここに来る前に立てていたが、今はまったく何も考えられない。目の前に広がる中トロ、エンガワ、地タコ、サンマ、サバ、シャコ、フク、アナゴ・・・・・・
 
 胃袋は際限もなく寿司を溶かし、手は他の何者かの命令に従うようにひたすら寿司を口に運ぶ。傍から見れば異様な光景だろうが、いまのおれにはわからない。

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(ロングライダース5.5につづく)